神社と歴史 忍領行田
「埼玉の神社」(埼玉県神社庁監修)によれば行田市内の神明社は二社しかなく、旧南河原村の馬見塚と中里の沼尻に鎮座する。両社とも旧村社で各々ささらや小高盛りといった古くからの神事が伝わり、地区の鎮守様となっている。新町通りを過ぎて、さきたま古…
行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。 和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は…
忍城址のある内行田地区は室町期成田親泰が城を築き、城下の造営を進めたことが発展のはじめとされ、江戸期には十万石の城下町の中心として栄えた。 当社は家康の娘亀姫が父の肖像画を頂き、子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して肖像画を…
扇状地末端で水が湧き出る場所を「おみ」と呼びそうで、周辺には「谷郷」や「若小玉」といった水に由来する地名が並ぶ。小見といえば真言宗真観寺が有名で、当社を「鎮守さん」真観寺を「観音さん」と呼び参拝するときは必ず両寺社にお参りするのが習わしだ…
行田市斎條は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。同じく私の住む星宮地区の中里も同じ条里制に由来する地名だ。 社記によれば景行天皇の御代御諸別王(みむろわけおう)が勅命を報じて、父彦挟島王(ひこさしまおう)に代わり東国支配を宣言する…
忍城の北西に広がる持田地区はもとは糯田と書いて、上、中、下地区と菅谷に分かれていた。上、中は剣神社、下は久伊豆神社(大宮神社)菅谷は八幡神社をそれぞれ村社として祀る。当社は上持田地区の剣神社の氏子区内にあり、字名は「竹ノ花」と称す。いまで…
行田市若小玉は、古くは若小玉小次郎なるものが住む地と伝わり、風土記稿によれば「嘉禎(かてい)四年(1238)二月二十三日、将軍供奉名のなかに、若小玉小次郎と記す(略)建長二年(1250)閑院殿造営の内、若小玉次郎とあり」鎌倉初期に当地の豪…
年越しの準備として拝殿煤払いをしました。昭和六年建造の社殿は今年で築90年。 一枚板で仕上げられた扁額はいつの時代のものか近いうちに調べたいと思います。 龍の彫りの足元が馬の蹄のようです。 神社の彫刻は旧長野村の柿沼勝石氏によるもの。 よく見る…
星宮地区下池守を北上し、行田市内北部を横断する星川を渡って進むと馬見塚、中江袋といった田園地帯が広がり、さらに進むと旧南河原村の中心よりやや西側に河原神社が鎮座する。利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に早くから開けた土地で、私市党(きさいとう)…
行田市中部東端に位置する下須戸は星川下流、見沼代用水の通る肥沃な田園地帯だ。旧国道125号沿い、その先は羽生市へとつながって行くが、市内に対になる「上須戸」の地名は見当たらない。新編武蔵風土記稿によれば、「上須戸」は幡羅郡にあり対となると…
忍領藤間の地は、見沼代用水の東側にある低地であるが、古くは「当間」と書いていた。柳田国男によれば「トマン」のンを省いた表現でトマンとはアイヌ語で沼、湿地を表している。こう記すともっともらしく聞こえるが、地名の由来にアイヌ語を引用することに…
行田市の南端に位置する野は「風土記稿」によれば広い野原であったことを意味し、江戸期の慶長年間(1611~)に開発され「野村」と称したという。天台宗正覚寺持ちとして、村鎮守は近くの野氷川神社であった。 鴻巣市く屈巣と隣接し、忍領最南東部にあたるこ…
行田市行田一丁目一番地に鎮座する愛宕社は氏子区域としては現在の大字行田の西部地区にあたる。昔はここを本町一丁目とし更に行田市上町と総称していたことから今でも上町の愛宕様、或いは本町の愛宕様と呼ばれている。一方行田酉の市で名高い愛宕神社は行…
行田市南河原は『平家物語』巻九「二度のかけ事」に登場する河原兄弟が領有する土地として知られ、北河原を弟盛直、南河原を兄高直が納めていたという。河原兄弟は源平合戦の生田の森の先陣を務めた東国の武者として描かれ、兄が矢で射貫かれた際、弟も其の…
行田市長野の白山古墳は埼玉古墳群の北端に位置する直径約50m、高さ5.7mの円墳で、墳丘の一部に白山姫神社が鎮座する。教育委員会の解説文によれば7世紀前半としては卓越した規模の円墳で埼玉古墳群の最高首長墓の変遷と古墳群の終焉を考える上で非常に貴…
行田市立北河原小学校の傍らに立つ村社十二所神社。其のすぐ北側には悪水の福川、並んで利根川が流れている。 これほど近くに大きな河川が流れていながら当地は水の取り入れ口がないため荒川の堰から農業用水を引いているという。(元荒川水利) 神社の創建…
利根川と福川の合流点に位置する酒巻は、その昔河岸があり、江戸時代から明治初頭にかけて江戸との生活物資の水運によって栄えたという。地名の由来は「水逆まく故、逆巻が酒巻に転じた」という。 逆巻の地は関東造盆地運動による地盤沈下が激しく利根川氾濫…
下忍の地名は上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたことから忍城に対して下忍と呼ぶようになったという。 口碑によれば「下忍神社は昔久伊豆神社と呼ばれ、武蔵七党の一つ私市党(きさいとう)の氏神であった」という。新編武蔵風土記稿の記載に…
忍城鎮守である本丸諏訪神社には多くの合祀社がある。明治に入って政府の合祀政策が進み、久伊豆社、二の丸稲荷天神社など小祠も含めて数多くの神社が合祀されたという。明治六年頃のことのようだ。その中に荒神社がある。合祀されたのちも地元矢場地区にて…
地名誌によれば佐間の地名はマは湖沼を表し、サは接頭語であることから、古来より沼地であったと考えられているようだが、佐間という地名がいつごろから用いられたかははっきりしないという。ただし埼玉古墳の北側に下ったところにある大日塚古墳にある板碑…
堤根の地名は天正十八年石田三成忍城攻めに際し、久下の堤を切って荒川の水を引き入れるために作った堤の下に開かれた地であることに由来する。現在は国道17号バイパスが通り、広大な田園地帯を多くの車が行きかう場所になっている。 享保十年に神祇官吉田兼…
行田市野は元荒川左岸に広がる農業地帯。寛永六年関東郡代伊奈半十郎忠道が河川改修を行うまでは、荒川本流であり、数年に一度は氾濫したという。度重なる水害に村人が川の神として氷川祀ったのが起源であり、天文年間の事という。祭神は素戔嗚命。碑文によ…
天神様の御祭神は菅原道真公であるのは有名だが、菅原公の神霊を天満大自在天神といったので、これを略して天満天神といった。佐間の天神社は享保五年(1720)京都吉田家から正一位天満天神の位階を贈られているが、創建は成田氏忍城築城時代に遡る。先述の…
ギネス認定された田んぼアートを見渡す古代蓮の里の北側に、同じく水田に囲まるように鎮座する、小針の日枝神社。昭和30年代中頃までは、数百本の杉の大木が林立し、山王様の森と呼ばれていたが、いまは境内に数本を残すだけになっている。 境内まえは低湿地…
持田は糯田とも書き地名の由来は黒糯などを植えるこえてない土地を意味していたとも伝わる。治承五年(1185)源頼朝が新田義貞に与えた下文に埼玉郡糯田郷とあり平安末期から鎌倉期にかけては既に村として開けていたことが分かる。 日本武尊東征の折、この地…
「埼玉の神社」「忍の行田の昔話」には春日神社の鹿にまつわる不思議な逸話が記されている。 宝暦十二年(1762)の四月、青木某という者が畑仕事をしていると、いつものように春日様の鹿がやってきた。「秋の実りでもお願いしようと」手を差しのべると、鹿はさ…
成田十五代当主下総守親泰は、成田家の氏神として大和の春日大社から春日神社を勧請している。親泰は、文明年間に児玉重行が居城する忍城を攻めて、児玉氏を追い出し本拠を成田館から忍城に移したとされている。神社の創建もその頃で社の裏の森には大樋が設…
行田市沼尻地区は忍川の左岸に位置し、持田、皿尾と隣り合う区域で中里の東になる。地名の由来は条里制の遺構にあるとされ、中里も同じ由来であり条里制水田遺構が埋没している。創建年代は不明だが正徳三年(1714)再興の記録が見られるようだ。明治期に中…
国道17号熊谷バイパスを鴻巣から走ってくると渡柳を過ぎてなお豊かな田園風景が続く。下忍交差点の先行田駅に向かう方面が前谷地区。古くは持田村の一部で前谷新田と呼び、『風土記稿』にも持田村の小名として前谷村と載っているそうだ。言い伝えに『三千…